TECHNOLOGY
豊饒なデータの海に、罪を裁く真実を探す ーデジタル・フォレンジックの世界ー

目次
元SMAP、中居正広氏の調査は、「デジタル・フォレンジック」という言葉を日本に広める大きなきっかけとなったと言える。
2025年3月、一大スキャンダルとなっていたテレビ局元社員とのトラブルで、被害女性について相談する中居氏とテレビ局幹部が、「見たら削除して。」など関連メールについてやり取りし、実際にSMSなど約300件が削除されていた事実が調査で明らかになった。これらのメッセージはUI上では削除されていたが、デバイス内に残存していたため完全に復元されたという。
近年、情報通信技術の急速な進展とともに、個人・企業・国家のあらゆる活動がデジタル空間上に記録されるようになった。これに伴い、犯罪捜査や訴訟、企業内調査において、デジタルデータを証拠として科学的に分析・保存する「デジタル・フォレンジック(Digital Forensics)」の重要性が著しく高まっている。
この分野は、もともと米国の法執行機関におけるサイバー犯罪対策の一環として発展したが、現在では民事訴訟、企業コンプライアンス調査、情報漏えい対応など多様な場面で応用されてきた。
ここではデジタル・フォレンジックによる新しい捜査の幕開けと、代表的な事件での革新的利用、そしてその弊害とこれからについて、詳しくみてゆきたい。
我広場に立ち、証もって告発す
そもそも「フォレンジック」という言葉は、ラテン語の「forēnsis(広場)」に由来し、ローマ時代の刑事告発が、広場にいる公衆の面前で事件を陳述する、ということを意味していた。現在は「法医学」「パプリックプレゼンテーション」を意味する言葉として使われているが、コンピューターや記録媒体に含まれる法的証拠を明らかにすることをも指すようになった。
デジタル・フォレンジックの活用は今に始まったものでなく、1970年代の卓上型コンピュータの登場と共にその犯罪可能性は想定され始め、1978年にはフロリダ州コンピュータ犯罪法が成立し、データの書き換えや削除を違法とするなど、アメリカでは早くからコンピュータ犯罪やその証拠保全に対する意識があった。
こうした技術は1980年代に活躍したドイツ人ハッカーであるマルクス・ヘスの追跡にも用いられた。ヘスは欧米など各国の軍事用や産業用コンピュータのネットワークに侵入し、その情報をソ連のKGBへ販売していたが、ローレンス・バークレー国立研究所のシステム管理者だったクリフォード・ストールがハッキングを発見し、CIAと共におとり用ハニーポットを設置するなどしヘスの検挙に至った。これが事実上初めてのデジタル・フォレンジック捜査だったと言われている。
1984年にはFBIにCART(Computer Analysis Response Team)が設立され、本格的な捜査機関が誕生した。
2013年には、世界を揺るがしたデジタルデータに関するスキャンダルが起きた。米国家安全保障局(NSA)の契約職員かつシステム管理者であったエドワード・スノーデンが、同局による大規模な通信傍受プログラムを告発し、数万件に及ぶ機密文書をメディアに提供したのだ。
スノーデンの暴露は我々一般市民へ大きな驚きと警告をもたらしたが、同時に国家機密の重大な漏洩の発覚は全米をゆるがした。米政府は直ちにデジタル・フォレンジック技術を中心に内部調査を開始し、情報流出の経路と影響範囲を特定した。この事件を契機に、米国では内部不正対策やセキュリティポリシーの強化が進められた。
日本では、2010年の大阪地検特捜部の証拠改ざん事件にて、ファイルのタイムスタンプ解析により改ざんが科学的に立証され、デジタル・フォレンジックが普及する大きな転換点となった。
また2012年には、2ちゃんねるを通じたパソコン遠隔操作事件にて、マルウェアによる遠隔操作の証拠をログ復元や通信先特定により明らかにし、無実の逮捕者となっていたパソコン所有者らを救い、真犯人を検挙することができた。
こうした実践的事件解決を経て、2017年にはついに、東京地方検察庁と大阪地方検察庁に専門部署「DFセンター」が開設された。
冒頭に示した中居氏に関する調査は、PCやモバイル端末、OneDrive、Outlook、Microsoft Teamsなど、計23万件以上の記録を対象に実施され、約1.95千件の削除データを回復した。一部は完全復元され、「削除=完全消去ではない」というデジタルフォレンジックの本質が示された。
このスキャンダルは単なる芸能界のトラブルにとどまらず、デジタル時代においては、”証拠隠滅を企図した削除行為自体も暴き出される”という、重要な教訓として知らしめられることとなった。
また昨今の離婚調停などの民事事件では、削除されたメッセージの復元が決定的証拠となり、企業内部調査でもチャット履歴解析でハラスメントを解明する事例が増えている。加えて、社員の顧客情報不正持ち出しでは操作ログやUSB接続履歴の分析が行われ、不正行為の全容解明に貢献している。
デジタル・フォレンジックは誤認防止や証拠の科学的裏付け、権利保護に不可欠な技術となったのだ。
デジタル・フォレンジック・メソッド
デジタルフォレンジックは、単なる「データの調査」ではなく、証拠能力を担保しつつ、厳密に記録されたプロセスに基づいてデータを抽出・解析・保存・報告する科学技術である。そのためには、技術的な知見だけでなく、法的・倫理的な視点も不可欠となる。
①データ収集(Acquisition)
デジタルフォレンジックにおいて最初に行うのは、対象機器からのデータのイメージ取得(Disk Imaging)である。これは、元データを改変することなく完全な複製を取得する作業であり、後の解析工程における信頼性を確保するために不可欠である。
また、スマートフォンやクラウドサービスからのデータ取得には、物理的なメモリ抽出だけでなく、論理的取得や、クラウドAPIを用いたリモート取得も用いられる。特に近年では、いわゆる“文春砲”などでも一般的となったLINEやWhatsApp、SNS、Gmailなどのクラウド上の通信記録も重要な対象となっている。
②データの解析と復元(Analysis & Recovery)
取得したデータからは、削除されたファイル、アクセス履歴、通信ログ、アプリケーションのキャッシュ、メタデータなど、多様な情報が抽出される。特に注目すべきは、ユーザーが意図的に削除した情報を復元する技術であり、これには、SQLiteデータベースのジャーナルファイルからのLINEトーク履歴復元、メールサーバやチャットアプリのログ解析、暗号化されたデータの復号化やパスワード解析、などといった手法が活用される。
③証拠の保全と報告(Preservation & Reporting)
フォレンジック調査で得られた情報は、「チェーン・オブ・カストディ(証拠保全の連鎖)」を維持したまま保管されなければならない。これは、どの人物がいつどのような方法で証拠にアクセスしたかを逐一記録することで、証拠能力の担保と後の反証への備えとなる。
最終的な調査報告書には、収集手順、使用ツール、解析結果、証拠の整合性確認、法的意味の解釈などが科学的かつ中立的に記述される。この文書は、裁判所、企業、法務部門などが意思決定を行う上で、極めて重要な役割を果たしている。
ハッカーとコンピュータに国境はない
デジタルフォレンジックの技術は、情報環境の変化に伴い日々進化を遂げている。一方で、技術的限界や制度的課題、倫理的ジレンマも依然として存在していることを忘れてはならない。
従来のフォレンジック技術は、物理的にアクセス可能な端末を前提としていた。しかし、近年では業務や個人データの多くがクラウドサービスに保存されており、クラウド上のデータ収集が要となっているため、サービス提供者の協力が不可欠である点や、多国間の法律の不一致が新たな障壁となっている。
国際的な証拠共有と法制度の整合性は課題のひとつで、サイバー犯罪は国境を越えて行われるため、証拠の所在が日本国外にあるケースも多い。だが、法域の違いにより、クラウドサーバの管理者からログを取得できない、証拠能力が認められないといった事態も発生している。
今後は、ブダペスト条約のような国際的なデジタル証拠の共有に関する法的枠組みへの対応や、共同捜査体制の強化が求められるだろう。
近年では、大量のデータから意味ある証拠を迅速に抽出するため、AIによるログ解析や自然言語処理(NLP)が導入されつつある。例えば、数百万件に及ぶメールデータから特定の文脈を持つやり取りを抽出するタスクに、機械学習アルゴリズムが応用されている。ゆえに、AIの活用が調査の効率化に寄与する一方で、「証拠の選別における中立性の担保」という新たな倫理的課題も生んでいる。
デジタルフォレンジックによるデータ収集はしばしば、個人のプライバシーと対立するという命題もある。
とくにスマートフォンには、通信履歴だけでなく本人の生活パターン、位置情報、健康状態など機微な情報が含まれている。捜査や企業調査の正当性をどう担保するか、そのための手続き的保証が今後ますます重要になるだろう。
デジタルフォレンジック技術の専門性が高まる一方で、その運用を誤れば、無実の人が不当に告発されたり、逆に真犯人を見逃す危険もある。技術者には、中立性・再現性・説明責任といった科学的倫理の理解と、法制度への深い知識が不可欠である。
現在、日本ではデジタルフォレンジック技術者の認定制度や教育カリキュラムが整備されつつあるが、国際水準にはなお課題が残っている。
真実はデータのなかにあるのだから
デジタルフォレンジックは、もはやサイバー犯罪捜査の専門技術にとどまらず、科学的証拠を通じた真実解明の要として機能している。
かつては「私的」領域とみなされていた情報が法的証拠となる現代において、技術者や法執行者には極めて高度な専門性と倫理観が求められるようになった。
同時に、AIやクラウド、IoTといった新技術の進展は、フォレンジックの在り方そのものに変革をもたらしつつある。
またマルウェアやランサムウェアといったサイバー攻撃は増加の一途を辿り、2024年に観測されたサイバー攻撃関連のパケットは約6,862億にのぼる。年々デジタル・フォレンジックの重要度は増している。
警察庁は、2025年7月17日、ランサムウエア集団「Phobos」によるデータ暗号化を解く復号ツールを開発したと発表。利用すれば身代金を支払わなくてもデータを復元できるようになる。こうした捜査機関によるデジタル技術の更なる進化は急務だ。
テクノロジーが発展し続ければ、より巧妙な犯罪が現れることは宿命である。物理的証拠が減少しつつある現代において、「記録された真実」に迫る科学技術は、民主的社会の根幹を支える不可欠な基盤となるだろう。
参考文献
Digital forensics: Technology for keeping evidences in the case of incident
Ryoichi SASAKI
https://www.jstage.jst.go.jp/article/johokanri/60/1/60_1/_html/-char/enフジテレビ疑惑暴いた「電子鑑識」 私用LINE、復元の壁
日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC225XL0S5A520C2000000/前代未聞の大事件「PC遠隔操作事件」の顛末
当時30歳のIT関連会社社員が行ったこと
東洋経済
https://toyokeizai.net/articles/-/178479?page=2Snowden casts doubt on NSA investigation into security disclosures
Gardian
https://www.theguardian.com/world/2014/aug/13/snowden-doubt-nsa-investigation-security-disclosuresSnowden used simple technology to mine NSA computer networks
Gardian
https://www.theguardian.com/world/2014/feb/09/edward-snowden-used-simple-technology-nsa警察庁サイバー特別捜査部が“世界初”の「復元ツール」を開発 ランサムウェア「Phobos」「8Base」の暗号化された被害データを完全復活
TBS NEWS DIG
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/2052812

伊藤 甘露
ライター
人間、哲学、宗教、文化人類学、芸術、自然科学を探索する者