PHILOSOPHY

人類史上最大のベストセラーを読み解く。5分でわかる、新約聖書とその影響

 

人気映画・アニメにも影響を与える「新約聖書」

1999年版のギネスブックに、1815年から1998年の間だけでも推定3880億回印刷された人類最大のベストセラーが掲載されている。「聖書」である。

単一書籍でのベストセラー一位、ミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』が約5億冊であることからも、その数字の膨大さがどれほど異質かは分かる。

ユダヤ教とキリスト教という2大宗教が聖典とし、またイスラム教が旧約の一部を聖典とする聖書を知らない人はいないが、実際に読んだことがあり、内容を理解している人はごく少数になるだろう。

特に新約聖書に関しては、世の中に氾濫する十字架モチーフ、西洋絵画や教会建築、アニメ「エヴァンゲリオン」や映画「マトリックス」など、その内容がベースとなった文化に溢れる現代、本当は何を意味しているのか、深く理解したい衝動に駆られるだろう。聖書を知ることは現代の価値観や社会構成、世界中で巻き起こる紛争の起因を知ることにもなる。聖書の内容を、今回は新約にフォーカスして解説し、現代に与えている社会的影響について考察してみよう。

新約聖書とは何か

本文では、日本聖書協会「聖書 新共同訳ー旧約聖書続編つき」より引用を行っている。

新約聖書は、それまで旧約の時代に預言者などを通じて度々人々に語りかけていた神が、“イエス・キリストという「独り子」をついに直接遣わした”、ということが核になっている。

人々はイエスを通して、神との衝撃的かつ決定的な出会いを果たす。新約聖書は、そうしてイエスに出会った人々やそれを聞いた人々の、各人にとっての意義を延べ伝える書である。

書物は主に、4つの「福音書」と呼ばれるイエスの生涯を伝える証言の書、イエスの弟子たちの伝道の様子と教会の発展を伝える「使徒言行録」、イエスの弟子たちがキリスト教徒たちに宛てた教訓などを延べ伝える21編の「手紙」、そしてキリストの再臨という世界観を説く「ヨハネの黙示録」で構成されている。

今回は特に、イエスがその短い生涯をどう生きたかに注目してみたい。
イエスの生涯を証言する福音書のうち、”異邦人”に向けた書である「ルカによる福音書」から内容を解説してみよう。

超要約!「ルカ福音書」

ナザレというガリラヤの町に天使が予告にやってくる。マリアというおとめは、いいなづけのヨゼフを含めてまだ誰も知らない処女であったが、天使は身ごもって男子を生むと伝える。皇帝から住民登録の命を受け、ヨゼフとマリアも祖先の地ベツレヘムへと旅をすることとなった。しかし滞在中に臨月になったが泊まる宿を探すことができず、唯一貸してもらえた馬小屋でマリアはイエスを生んだ。

成長したイエスは、同じく天使に予告されて生まれ、罪を赦し悔い改めるための“洗礼”を授け始めたヨハネのもとへ行き、自らも洗礼を受けた。すると鳩のように目に見える姿で“聖霊”が現れ「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』」(ルカ3:22)という神の声が聞こえた。イエスのターニングポイントである。

イエスはガリラヤで伝道を開始する。伝統的なユダヤ教の価値観に新しい解釈をもたらし、教えとして説いてまわった。また病人や悪霊に憑かれた人を癒してまわり、人々を熱狂させた。

途中出会った漁師兄弟のシモンとペトロを弟子にしたのを皮切りに、12人を弟子にする。ある日イエスは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(ルカ9:22)と自分の死と復活を予告する。弟子たちは未熟だったため、それが何を意味するか理解できなかった。

伝統的なユダヤ教の律法の在り方をはっきりと批判したイエスに対して、ファリサイ派や律法学者たちは「激しい敵意を抱き」(ルカ11:53)始めた。しかし民衆はよりイエスの教えに熱狂してゆく。

ついにエルサレムに入場したイエスは、群衆から歓喜のうちに迎えられる。

ユダヤ教の神殿で説教を行い始めたイエスに対して祭司長や律法学者たちはなんとかイエスを殺そうと謀るが、人々が夢中になって話に聞き入っていたため実行できない。しかし「サタンが入った」(ルカ22:3)ことでイエスの教えに懐疑的になっていた弟子の一人ユダがイエスの引き渡しについて相談をもちかけたため、彼らは喜んでユダに金を与えることにした。

“最後の晩餐”として有名な晩餐がイエスと12人の弟子たちで行われ、そこでイエスは弟子の内に裏切り者がいることを予告する。

イエスはユダの裏切りによって予告通りに逮捕され、裁判にかけられる。イエスは自分が死ぬという定めを全うするために裁判で証言をせず、“偽りの王メシア”を名乗った民衆扇動の罪で死刑が決定する。

暴行を受けたのち重い木製の十字架をかつがされゴルゴダの丘に向かわされ、そこで張り付けにされた。真昼間だったが急に全地が暗くなり神殿の垂れ幕が真っ二つに裂け、イエスは絶命した。その現象に人々は畏敬の念を抱き、イエスが正しかったことをその死をもって知った。

その後墓に葬られるが遺体が忽然と消え、弟子たちの前にイエスが現れ復活したことを示す。そしてこの出来事が「その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(ルカ24:47)ことを弟子たちに伝え、ついに天へ昇っていった。弟子たちはイエスの死の悲しみから一転し、歓喜して神の業をほめたたえた。

律法は書き換えず、その考え方を変える

そもそもイエスは元来ユダヤ人であったことは忘れてはならない重要なポイントである。

当時の旧約聖書の律法の価値観は、書かれていることをより忠実に守ることが義とされていたため、たとえば新約聖書に象徴的に登場する羊飼いという職業は、安息日にも羊の世話で仕事を休むことができないために当時の被差別民であった。

新約のイエスの教えは、マタイが強調しているように、「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ5:18)旧約の価値観を継承しながらも、それを「完成するため」(マタイ5:17)だったという点が最も特徴的だろう。被差別民の羊飼いがイエス誕生の知らせを一番最初に受けたところに、この価値観の大転換の始まりとして象徴的な意味を見出すことができる。

「神の国」は本当はどこにあるのか

イエスが、自分が排斥され殺されそして復活すると弟子たちに教え始めると、ペトロはイエスを脇へ連れて行っていさめ始める。するとイエスは「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(マルコ8:33)とペトロを叱る。これはペトロたち弟子ですら、王政的な救世主像をイエスに持っていたということの明らかな記述である。

イエスが語った“神の国”が、ローマ帝国の支配から逃れいずれ樹立される現実の国で、より人間的栄光の実現だとする誤解を、弟子たちや一般大衆は持っていた。

しかしイエスが説いてまわった神の国は、地図上には無い。それは私たち一人ひとりがこころのうちに持つものだからである。でも人は一般的に、金銭や名誉や得に関わらないことには興味を示さない生物であり、実際に圧制に苦しんでいた人々にとって、イエスのコンセプトを理解することは難しかっただろう。

この大きな無理解は失望や疑念を生み、ユダの裏切りを引き起こし、それまでイエスをあがめたてた大衆がくるりと手の平を返し、ピラトの問いかけに対し「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」(ヨハネ19:15)と叫ぶという悲劇を引き起こしたのであった。人間はいつの時代も変わらないものだと感じさせる。そしてそんな人間全てを包摂して愛するということが、新約聖書の根幹にテーマとして横たわっている。

ゲッセマネの祈りの絶望

ゲッセマネの祈りは、イエスがこれから起こる痛みと絶望を伴う死を恐れ、必死に祈りながら葛藤する印象的なシーンである。

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)

映画「パッション」では磔刑前の暴行の様子が聖書の記述を更に詳細にして描かれ、そのショッキングさが物議をかもした。激しい鞭打ちや暴行、茨の冠を頭にむりやりかぶせられ血を流し、十字架に釘で手足を生きたまま打ち付けられるなどといった身体的苦痛に加え、人々にののしられ嘲笑されながら死んでいくという、人が考え得る中でも最低の苦しみを味わうことが分かっているならば、それを遠ざけてくださいと祈ってしまうのは当然だろう。

そうした人間的な弱さが表現されていることの繊細さに、驚かされる。そして、“しかし、御心のままに”と、苦しみながら全てを受け入れて死んでゆく。

わたしはあなたを知らない

イエスは弟子ペトロに離反を予告する。「あたなは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」(ルカ22:34)ペトロはそんなはずがないと信じないが、イエスが捕えられると、密かに遠くから従ってきていたペトロを見た人々が「この人も一緒にいました」(ルカ22:56)と糾弾する。

ペトロは捕まって死ぬ恐怖から3度イエスを「わたしはあの人を知らない」(ルカ22:57)と否定してしまう。すると言い終わらないうちに鶏が鳴く。そんなペトロの姿をイエスは、振り返りながら見る。自分は裏切られながらも、まだペトロを案じて見つめている。ペトロは逃げ去り、外に出て激しく泣いた。弟子たちの人間的弱さが最も強調された、ドラマティックな部分である。

あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる

こうして改めて新約聖書を読み込んでみれば、その普遍性に驚くだろう。私たち人間は生きている限り、誰しもが苦しみや痛みや悲しみから逃れることはできない。現代まで多くの人の心を動かしてきたのは、そうした苦しみを、“イエスは分かっている”と聖書が示している、という要素も大きい。

ゴルゴダで十字架に張り付けにされた時、イエスの左右には罪人が2人同じく磔刑に処され息絶えるのを苦しみの中で待っていた。一人はののしり、メシアなら自分を救ってみろと言うが、もう一人は、この人は何も悪いことをしていないとたしなめ、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」(ルカ23:42)と言った。イエスは息絶えながらも、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)と答えた。

この言葉は、未だキリスト教の葬儀などでも読み上げられ続けている。同じ十字架にかけられ痛みと絶望に苦悶しながら、それでもなお罪人すら含め、全ての人間を救おうとする。イエスこそが最も苦しんだからこそ、人々はイエスが苦しみへ寄り添ってくれていると感じられる。だからこそ、聖書を開き続ける人々を、今も救い続けているのかもしれない。

参考文献

日本聖書協会「聖書 新共同訳 ー旧約聖書続編つき」
小川英雄著「聖書の歴史を掘るーパレスチナ考古学入門ー」東京新聞出版局オリエント選書、1975年
山形孝夫著「聖書の起源」株式会社講談社、1976年
和田幹男著「聖書年表・聖書地図」女子パウロ会、1989年
デイビッド・P・バレット著「コンサイス聖書歴史地図」いのちのことば社、2019

WRITING BY

伊藤 甘露

ライター

人間、哲学、宗教、文化人類学、芸術、自然科学を探索する者