SCIENCE

がん細胞は、危ない会話で身体を駆け巡る

自分自身が牙をむく

がん、それは人類がその歴史の殆どでなす術を持たなかった、恐るべき存在である。

人間の体を構成する60兆個ほどの細胞は日々分裂を繰り返し、生まれては死んでいる。その中で突然、細胞の書き換えにエラーが起き、分裂を無限に繰り返し、死なずに増殖し続けるのが「がん」と呼ばれている細胞である。

自分の体の一部なのに、ある日を境に全く制御不能になり、自分に牙を向くとは、なんと恐ろしいことだろう。人間はその宿命からは逃れられないのだろうか。

現在日本人の2人に1人が生涯のうちにがんと診断されているが、がん細胞単体が肥大することよりも、リンパを通って様々な位置に転移することが最大の問題である。長い間、肥大する原発がん自体を早期摘出することで転移を防いできたが、転移そのもののメカニズムは解明されておらず、治療方法もなかった。

そんな動くことのできるがん細胞が、実はお互いに「会話」をしているとしたらどうだろう。そしてその会話を通じて人間の身体の中を飛びまわっているとしたら、それは一体どのような仕組みなのだろう。その悪質なコミュニケーションを断ち切る方法があるとしたら、それは人間の闘いにどのような恵みをもたらすのだろうか。

それはある学生のひらめきから始まる


2017年、がんとの1世紀に及ぶ戦いに飛躍的な進歩をもたらす重要な論文がネイチャー誌に発表された。その発見者であるハシニ・ジャヤティラカは、TED Talksで当時を回想する。

2010年、ジョンズ・ホプキンス大学の大学2年生だったハシニは、研究室でがん細胞の観察を始めたところだった。

それまで専門的な研究を行ったことはなく、初めて配属されたラボが3Dシャーレの中でがん細胞を培養していたことはハシニをとてもワクワクさせた。それまで見た実験では、細胞は2Dの平たいガラスシャーレで培養されており、体内のがん細胞の状態を反映しているとは思えなかったからだ。

そんなある日、プリンストン大学のボニー・ベイスラー博士のバクテリアについてのセミナーを受講していた時に、彼女に大きなひらめきがおとずれた。

ベイスラー博士はバクテリアがお互いに「会話」しており、会話によってバクテリアが密集することで特定の動きが観察できると解説したが、それはまさしくハシニが毎日3Dシャーレの中で観察していたがん細胞に見られた動きだったからである。

ハシニはがん細胞も、バクテリアのように何らかの伝達でお互いにコミュニケーションをとり合い密集することで、「飛散」という動きが生じているのではないかと仮定した。

大学2年生が閃いた突拍子もないアイディアだったが、運よく理解者を得てプロジェクトを発足。ハシニ自身に専門知識がない中、学部生から教授まで様々な人々が集まり、ハシニのアイディアを実証するための研究チームを組織することとなった。

その後の成果は、この論文が社会に与えたインパクトの大きさからもわかる通りである。

細胞は集まり会話する


ハシニ論文の概要はこうである。

3Dシャーレの中で1立方ミリメートルに10個のがん細胞の増殖を観察すると、細胞密度が高くなるにつれ、サイトカインという細胞から分泌されるタンパク質(特にIL-6とIL-8という炎症促進タイプのサイトカインで、どちらもがん細胞の進行と転移に関わることは知られていた)を介してがん細胞どうしがシグナルでコミュニケーションを図るようになることがわかった。そして密度が高くなればなるほど、コミュニケーションシグナルによって細胞自体に共振のような動きが生じ、それが弾みとなって、トランポリンのように細胞が飛散を始めることが明らかになった。

細胞が走り回る最高速度は、1立方ミリメートルあたり100個の細胞が上限で、そのあとは横ばいになった。ハシニが仮定した通り、がん細胞はやはり「会話」が原因で、体中に転移していたのである。

この現象は現在彼女の名をとって「ハシニ効果(Hashini Effect)」と呼ばれている。

彼女はまた、IL-6とIL-8によって誘発される会話を、それぞれに対応する2つのインターロイキン(IL)受容体遮断薬を用いて阻止し、腫瘍の転移可能性を減少させ、生存率が向上することも証明した。

IL-6を遮断する、トシリズマブという本来関節リウマチの治療に使われてきた薬と、IL-8を遮断するレパリキシンという血圧降下薬として使われてきた薬、二つのカクテルによって、がんの転移が抑止できるなど、誰が思い描いただろうか。

ハシニ論文は全く驚くべき新発見であったと共に、私たちに、「いつかがんが克服できる病になるかもしれない」という夢を抱かせてくれる。がん患者とその全ての愛する人、そしてこれからがんになることを恐れる人類全体への、一つの希望になったことは間違いない。

自殺する細胞、命の回数券

そもそも私たち人間は、なぜこんなにもがんになるのか。2018年の統計では、世界中でがんに罹患した人は1,810万人に及ぶ。これは確認されているだけで、きっとさらに数は多いだろう。

では、なぜ人はがんという宿命のもと生きていかなければならないのか。免疫学者の多田富雄は、著書「生命の意味論」の中でそのメカニズムを解説している。

そもそも人間の細胞とは、秋になったら木の枝と葉の接続面に当たる部分が自ら死んで葉を落とす現象に表されるように、「自死」するものなのである。この細胞の自殺を「アポトーシス」と呼ぶ。例えば妊娠中、お腹の中の赤ちゃんは初期、手が丸いミットのような状態になっている。そこから、指の骨の間の細胞が自殺することで指と手の形がまるで彫刻のように削り出される。

また1個の受精卵から成虫になるまでの細胞分裂の経路が全て解明されている線虫C.エレガンスという虫は、完全な成虫になるまで1090個の細胞のうち130個がアポトーシスによって死んでおり、この死こそが、線虫の神経系を発達させる要因になっている(死んだ細胞は別の細胞によってすぐに取り込まれる)。つまり人間の脳神経系や免疫系も、高度に進化したシステムになるためには、細胞が必ず自死する必要があるのである。

しかしこの自死のメカニズムをバグらせるものこそ、癌遺伝子である。bcl-2という癌遺伝子はアポトーシスを抑制し、細胞を不死身にさせる。不死身になった細胞は無限の増殖能力を持って、ランダムに体内で増え続け、我々の体内の正常な細胞にまで悪魔の囁きを行う。人類の長い歴史の中で「不死」は夢だったはずなのに、“死ねない”ということがキーになっているのは皮肉な話である。

また多田は、我々が老化によって死に至る原因と細胞ががん化する過程を以下のように説明する。

生物の染色体の両端に当たる部分に、「テロメア」というDNAの無意味な構造が繋がっていることは昔から知られていた。「TTAGGG」という6つの文字が繰り返されたDNAの繋がりである。

人間では23の染色体の両端にテロメアが2000回繰り返して繋がっている。細胞が分裂してDNAが複製される時にこの無意味なテロメアも一緒に複製されるが、興味深いことに細胞が分裂する度にテロメアの長さが短くなっており、テロメアが細胞分裂の回数を数える「回数券」のような役割をになっていることが分かったのである。

つまりテロメアの長さは老いに関係しており、テロメアがすっかり短縮してしまうと、細胞分裂がうまくいかなくなる。そして再生能力を失い、複製を完全に停止する。

では、テロメアを引き伸ばす方法を探れば老化を抑止することができるのでは、と誰もが考えるが、テロメアは引き伸ばされるとなんとがん化することが分かっている。がん化した細胞にはテロメアを継ぎ足すテロメラーゼという酵素が働いており、この死の回数券を無限発行する状態になる。それが細胞増殖の秘訣なのである。そして我々はやはり死に至る。

どちらにしろ、我々は死という時限装置から逃れることはできないし、「ドリアン・グレイの肖像」など古典文学で繰り返し描かれてきた不死の孤独を体験せずに済むことは、ラッキーなことなのかも知れない。

130年前に撮影された白黒フィルムに、現代の技術でカラーリングした映像を見ると、当時の臨場感と人々が生きていた瑞々しい痕跡に驚くととも、ここに映っている人々は誰一人として既に生きてはいないという事実に、不思議な感慨を受ける。我々は生きている限り死に向かっているが、孤独ではない。命は有限だからこそ、人生は美しく輝くのである。

サヨナラにサヨナラ

我々を構成する細胞は日々生と死を繰り返している。生まれてからずっと変わらない細胞もあるが、大多数の細胞は入れ替わり、我々の実相は昨日と今日では既に違うのかもしれない。その人間存在のうつろいを表現した中島らもの詩を最後に紹介したい。

「人間の実相は刻々と変わっていく。無限分の一秒前よりも無限分の一秒後には、無限分の1だけ愛情が冷めているかもしれない。
だから肝心なのは、想う相手をいつでも腕の中に抱きしめている事だ。
ぴたりと寄り添って、完全に同じ瞬間を一緒に生きていく事だ。
二本の腕はそのためにあるのであって、決して遠くからのサヨナラの手をふるためにあるのではない。
今日の私は昨日までの私とは違う。だから今ここできつく抱きしめ合おう。」

中島らも著「愛をひっかけるための釘」集英社文庫、1995年 『サヨナラにサヨナラ』より

がんや死のことを考え、新しい科学的発見や治療法を模索する度、失われるべきではなかった命が救われた世界線を夢想する。

そこには病院で痛みに苦しむ姿ではなく、美味しい食べ物をたらふく食べ、好きなところを旅し、好きな仕事をして、思い描いた人生を歩むことができる、いまや亡き人の幸せな姿がある。そのあたたかい夢を抱いて、我々は先に進んでいく。

今生きる人、これから生まれてくる人が、新しい時代にがんを克服し、穏やかに人生を全うできるよう、心から願わずにはいられない。そしていつか誰しもに平等に死が訪れるなら、今存在していることを最大限祝福し、愛する人を抱きしめよう。

参考文献

Jayatilaka, H.(2017).Synergistic IL-6 and IL-8 paracrine signalling pathway infers a strategy to inhibit tumour cell migration. Nature Communications volume 8, Article number: 15584
https://www.nature.com/articles/ncomms15584
How cancer cells communicate — and how we can slow them down TED talks:https://youtu.be/1fZ915L1w7I
世界におけるがん患者数の動向 オリンパス
https://www.olympus.co.jp/csr/social/learning-about-cancer/01/?page=csr
多田富雄著「生命に意味論」新潮社、1997年
中島らも著「愛をひっかけるための釘」集英社文庫、1995年

WRITING BY

伊藤 甘露

ライター

人間、哲学、宗教、文化人類学、芸術、自然科学を探索する者