PHILOSOPHY
グーテンベルクの活版印刷から電卓、そしてAIまで。テクノロジー反対運動が私たちに教えてくれること
目次
AIが人類が未だかつて対面したことのないようなスピードで進化する毎日、Claude Codeで瞬く間にAIエージェントが普及し、 Genie 3を活用した実験的プロトタイプ「Project Genie」が発表された影響からか任天堂などゲーム会社株が一時急落、ゴールドマンサックスがAnthropicの支援でAIを導入し会計とコンプライアンス関連業務の自動化進めるなど、日々激動の変化を迎えている。こうして記事を書く1日のうちに状況は変化するが、これをひとつの転換点の記録として、淡々と記したいと思う。
2026年には資本主義が崩壊するなどというネット上でまことしやかに囁かれる今、人々の間には言語化できぬ不安も広がっている。
「新しいテクノロジーは進歩である」という直線的な物語は魅力的だ。しかし歴史を丁寧に振り返れば、技術の登場は常に歓迎と警戒を同時に呼び起こしてきたことがわかる。大きな技術革新の転換点と反対運動は常に隣り合わせだった。
活版印刷は魔女狩りを生むか

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15世紀半ば、ヨハネス・グーテンベルクが活版印刷を実用化したとき、彼は単に書物の製造法を改良したのではなかった。それまでの豪奢な手書き(写本)や木版印刷に代わり、活字を組み合わせて印刷する活版印刷の手法は情報の複製コストを劇的に下げ、知識の流通速度を変え、結果として社会構造そのものを揺さぶったのである。
それまで書物は修道院や大学で写字生によって手作業で写され、知識は限定された上層階級の人々の内部で権力と一体化し循環していた。活版印刷はその閉じた回路を破壊し、本は短期間に大量生産され、価格は下がり、識字層は拡大していった。教会の知識独占が崩れ、文芸復興(ルネサンス)や宗教改革、さらには科学革命がこの情報爆発を土壌として進展したと言っても良いだろう。
しかしこの変化は、当然ながら既存の秩序に緊張をもたらした。ウンベルト•エーコの『薔薇の名前』にも描写されている、写本で生計を立てていたスクライブ(写本業者)や修道士たちは仕事を失う不安に直面した。1476年には、パリの写本業者たちが印刷機への反対運動も起こしている。
一部の聖職者は聖書が一般の人々に広く読まれ教会の権威が失墜することに強い危機感を抱いた。 ドイツの修道院長ヨハネス・トリテミウスは『写本賛(In Praise of Scribes)』を書き、手書きの精神的価値を強調して印刷技術に抵抗した。
印刷物は「魂がこもっていない」と批判され、異端思想や誤情報が拡散する危険が説かれた。実際、カトリック教会は「禁書目録(Index Librorum Prohibitorum)」を整備し、情報統制を試みた。
そうした反対運動にもかかわらず、活版印刷の圧倒的なコストパフォーマンスとスピードは、本が「高級品」から「大衆の道具」へと変化する流れを止められなかった。
「聖書」が広く販売されたことで、教会の想定していた”脅威”マルティン・ルターは現れた。1517年、マルティン・ルター が発表した『95か条の論題』は、活版印刷によって各都市で大量に複製され、数週間のうちにドイツ各地へ広まった。それまで思想や学問は、大学や修道院、教会のネットワークを通じてゆっくり伝わっていたことを鑑みれば、これは未だかつてない速さだったに違いない。さらにルターは聖書をラテン語ではなくドイツ語に翻訳した。印刷されたドイツ語聖書によって、一般の人々が自分で聖書を読めるようになり、ラテン語という教養を盾に教会だけが持っていた解釈の権威を弱め、印刷技術と共に人々が平等に情報を受け取れるようになった。
こうした技術発展の反対運動は人々の不安から生まれる荒唐無稽な主張が主たるものだが、中には問題の核心を突いていることもある。
作家マーク・トウェインに由来すると言われているグーテンベルクについての名言にこんなものがある。
「今日の世界は良くも悪くも、グーテンベルクに負うところが大きい。全ては彼が起源であり、我々は彼に敬意を表する必要がある。なぜなら、その偉大な発明がもたらした悪影響は、人類が受けた恩恵によって一千倍もかすんでしまうからだ」
こうした表現は、活版印刷の発明が、知識の民主化という人類に計り知れない恩恵をもたらした一方で、情報の大量生産と拡散がもたらす負の側面である、”誤情報のかつてない規模の流布”という、これまでにない混乱が起きたことも示唆している。
活版印刷の普及による識字率の向上や書物の大量流通は、誤情報や恐怖の物語も広域に拡散させる力を持っていた。16〜17世紀の魔女狩りにおいては、『魔女に与える鉄槌』(Malleus Maleficarum)のような書物や裁判報告のパンフレットが印刷によって広まり、”悪魔との契約、夜の飛行、拷問による自白の正当化”といった「統一された魔女像」を人々に与え、その結果社会的不安が増幅されたとも言える。もちろん印刷術そのものが魔女狩りの直接的な原因だったわけではなく、宗教対立や社会不安といった複合的要因を拡大する「増幅装置」だった訳だが、それは現代のXなどにも似た普遍的な問題だ。
この発明は、現代の情報社会の源流であり、今やその誤情報をAIがさらに無限複製し拡散する時代になった。
ではただひとつの原本のみ存在し、知恵は正しくコントロールできる人々の手中に在るほうが、人類にとって幸運だったのか?
知恵の実を既に食べた私たちは、万物の摂理の庇護のもと幸せで足るを知っていた時代に戻ることは、もうできないだろう。
自動車の前を人が歩かねばならぬルールについて
19世紀初頭のイギリスで起きた織り機の破壊を目的とするラッダイト運動もまた、単純な「反技術」ではなかった。産業革命によって蒸気機関や自動織機が導入されると、生産効率は飛躍的に向上した。しかしその一方で、長年の訓練によって技を磨いてきた熟練職人たちは、低賃金の工場労働に置き換えられ、失業に直面した。まさしくカール・マルクスが『資本論』で理論化した構造にあたる、職人技の工程を解体し分業化した、人に技術特権を与えない資本主義的効率化と事業主による搾取である。これを受け、イギリスのノッティンガム、ランカシャー、ヨークシャーなどの繊維工業地帯で、ストッキング編み機や毛織物用機械が破壊の対象となった。
彼らが破壊したのは機械だったが、その背後には「機械を導入することで利益を集中させる資本の論理」への怒りがあった。政府は機械破壊を死刑に処する重罪とし、軍を動員して鎮圧した。ここで重要なのは、彼らの恐怖が幻想ではなかったという点である。仕事は実際に奪われ、地域社会は再編された。技術は生産性を高めるが、その恩恵がどのように分配されるかは別問題なのである。現代では、AIやオートメーション化の進展で仕事が失われる懸念から、新しい技術の導入に反対する動きを「ネオ・ラッダイト」と呼ぶこともある。
鉄道の登場もまた、合理と恐怖が交錯する瞬間だった。蒸気機関車は人間や馬では到達できない速度を実現し、距離の感覚を変えた。ヨーロッパでは高速移動が人体に悪影響を及ぼすという議論が真面目に行われ、農民は家畜が驚き農業に被害が出ると主張した。
日本でも1872年に新橋―横浜間で鉄道が開通した際、「陸蒸気(おかじょうき)の騒音で鶏が卵を産まなくなる」「家が壊れる」といった噂が流れ、生活を脅かすと懸念された。また当時の主たる輸送手段だった馬子や車曳きが、失業を恐れて妨害運動を起こした。
鉄道は単なる移動手段ではなく、時間の標準化や都市構造の変化を伴う社会システムそのものだった。やがて反対は誘致へと転じるが、当初の恐怖は未知への本能的な反応でもあったはずだ。
さらに自動車の登場と馬車運転者たちの反対運動は、Redditなどのプログラマー界隈でよく引用される定番のたとえであり、やや神話化されているが、本質的な示唆に富む。
自動車の台頭は当然既存交通産業との摩擦を生み、19世紀末、ロンドンでは馬車業者などがあらゆる手を使って自動車の普及に反対した。自動車は危険で、騒音や排気が都市環境を破壊する、馬が驚き事故が増える、熟練技能が無価値になるといった主張だ。
例えば1865年制定の赤旗法では、赤旗を持った人が自動車の前を歩くことが義務づけられ(本末転倒かつ滑稽な嫌がらせでしかない)、時速約6キロと速度も厳しく制限された。”安全確保”が名目であったが、馬車業界の影響力も無視できなかったのだろう。
興味深いのは、自動車に対する懸念の一部が現実の問題として顕在化したことである。交通事故や排気ガス、公害、都市設計の歪みは実際に発生した。反対運動は常に非合理とは限らず、未来への警告を含んでいる。
ルールによる規制は現代のAIに対しても国によっては広く支持されていることなどを鑑みれば(当然倫理的観点からもルールは制定されるべきだが)、こうした新旧技術の対立はやはり普遍的なものであり、かつ今や馬車が淘汰されたことは、新しい技術は未熟でも方向性が正しければ止まらない、という人間社会の真理を表しているようだ。
人間の能力の再配置

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20世紀に入ると、反対の焦点は「人間の能力」に移る。
テレビが家庭に普及した1950〜60年代、教育者や知識人は強い警戒を示した。子どもが本を読まなくなり、暴力的番組が人格形成に悪影響を与え、家族の会話が減ると危惧された。確かに生活様式は変わった。しかしテレビは同時に、共通のニュースや文化体験を社会全体に共有させる媒体ともなった。能力や文化は単純に衰退したのではなく、形を変えたのである。
1970年代に携帯型電卓が普及すると、学校教育の現場では暗算力の低下が問題視された。
思考せずに答えだけを出す人間になるという批判もあった。だが最終的には、基礎計算は手作業で学び、応用や複雑な問題解決には電卓を用いるという折衷的な実践が定着した。人間は計算能力を失ったのではなく、より高次の課題へと時間を振り向けるようになった。これはまさに現在大学などで議論されているAIの使用をどこまで学業で容認するかの線引きと同様の構図になっている。今はまだ社会がAIの機能に圧倒されているが、いずれ電卓のように棲み分けが為されることだろう。
1980年代のワープロやパソコンの導入も同様だった。漢字が書けなくなる、思考力が低下する、業務効率化によって人員削減が進むという懸念が広がった。しかし結果として文章作成の敷居は下がり、編集・再構成という思考プロセスが拡張された。パソコンは「人間を管理する装置」から「人間の表現を拡張する道具」へと位置づけが変わっていった。
上述の通り、「パソコンを導入して業務効率が上がると、人減らしをされる」という恐怖感から、労働組合や従業員が導入に反対し、特にホワイトカラーの業務が効率化されることへの抵抗感は非常に強かったとされている。同じくAIの到来により2025年からアメリカでホワイトカラー新卒採用が大きく冷え込んでいることを鑑みれば、今は更に不透明な状況だ。
しかし人々は思ったより声をあげていない。それはAIがもはや2〜3日先の未来を見通せない技術革新の過渡期にあり、人間は自分の身に何が起こっているかすら俯瞰できない状況にあるからかもしれない。パソコンが私たちに思考プロセスの拡張を与え、人類を新しい地平に導いたように、AIにも同じ力があることは明らかなのに。
この爆発的な知能拡張への期待と不安は、リアルな手触りを持って今私たちに迫っている。
宇宙の誰よりも、ユニークなわたし

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こうした歴史を通して現れてきた反対運動には常に共通点がある。
人間が新しいテクノロジーに対峙した時、能力が退化するという不安、仕事を奪われる恐怖、文化、道徳、質が下がるという懸念、新技術の恩恵が不公平に配分されるという疑念に苛まれる。”人間がダメになる 社会が壊れる”という感情が、時代ごとに異なる技術へ激しく投影されてきた。それでもこの流れを貫くのは、人間の能力が消えるのではなく、”能力の配置が変わる”という事実である。
私たちはいま、その再編の只中にいる。
技術は人間の一部の機能を外部化するが、その代わりに新たな創造的余地を生んできたのだ。私たちはそれに食らいつき、日々共に進化してゆかなければならない。
またAIによって能力の配置が変わる時、ホワイトカラージョブの次は、これまで想定されたことすらなかった創造性の外部化が起きてしまう、そんな不安も口にされつつある(事実今もある種のレベルでは可能ではある)。それが実現した時、私たちはどう捉えるべきだろう。どう倫理観を持ち、どう立って生きるべきだろう。
俳優イーサン・ホークはインタビューで、昨今のAI生成に対し人間が創造を続ける意味について問われ、
「それを考えている人が美しい。だからその人から生まれるクリエイションは美しいし意味がある」
と語っている。
ライティングやイラストやフィルミング。
クリエイティブワークがAIに置換され始めていると言われ始めてもうしばらく経つが、AIのライティングやイラストに今はまだ心動かされることはない。それはAIがあくまでどんなに高度なプロンプトに答えようとAIは、過去に人間が残した表現の分布の内部でしか思考できないが、私たちの脳はそれより遥か突拍子も無い方向に飛び回り続けているからだ。それはAIたちがデータソースにしているインターネットの”普通”を突き抜けて、宇宙の端まで届くくらい私たち一人ひとりが風変わりだからだ。
今後のAIの発展は、これまでと同じく予測を拒み続けるだろう。
その進化は加速し、私たちは幾度となくAIを鏡にして、自らの輪郭を確かめるようになる。
そのたびに、人間ができることの意味は、静かに揺らぎ、変化してゆくかもしれない。
それでも何故、人間のイマジネーションとクリエイションが尊いのか。
それはその人の存在そのものが美しいから。
その人の内側が創るものだから、美しい。
そのことをこれからも度々、私たちは思い出すことになるだろう。
参考文献
Brian Merchant
“Blood in the Machine: The Origins of the Rebellion Against Big Tech” 2023.David Harvey*
Law and the Regulation of Communications
Technologies: The Printing Press and the Law 1475 – 1641
https://www.icnl.org/wp-content/uploads/Transnational_DavidHarvey.pdf「反コンピュータ」と「コンピュータ合理 – 化反対」 の狭間で – 全学労連
https://gakurou2006.web.fc2.com/old-news/pamphlet/momo/090725-momo015/003.PDF「誕生と発展の歴史」
情報処理学会
https://museum.ipsj.or.jp/computer/personal/history.html「コラム 第1次産業革命とラッダイト運動」
国土交通省
https://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h28/hakusho/h29/html/n1131c02.html21世紀のテクノフォビア 第5回
鉄道嫌いの時代(後編)
速水健朗
https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/column/techno_phobia/21941/2交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察
青木 栄一、東京大学出版会、1986年
https://d-arch.ide.go.jp/je_archive/english/society/book_unu_jpe6_d05_01.html数学教育における「計算機 」 の素養について
ー問題解決への活用という観点からー
吉川 成 夫 、 日本科学教育学会 第10回年会、1986年
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssep/10/0/10_323/_pdfA Brief History of Calculators in the Classroom
Audrey Watters on 12 Mar 2015
https://hackeducation.com/2015/03/12/calculators子どもとテレビ研究・50年の軌跡と考察
~今後の研究と議論の展開のために~
NHK放送文化研究所
https://www.nhk.or.jp/bunken/research/domestic/20020130_4.html
伊藤 甘露
ライター
人間、哲学、宗教、文化人類学、芸術、自然科学を探索する者
