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膨張する医療費、横行する診療報酬支払拒否。絶望的な米国医療をAIは救えるか

膨張する医療費、横行する診療報酬支払拒否。絶望的な米国医療をAIは救えるか

医療費が膨張を続けるアメリカで、民間医療保険会社による診療報酬の支払拒否が問題になっている。保険会社が診療報酬の支払を拒否する理由は後述するが、実際に保険会社による診療報酬支払拒否によって必要な医療行為が受けられない患者が生じるなど、社会的な問題になりつつある。

そうした中、保険会社の診療報酬支払拒否を覆すため、AIを使って「嘆願書」を作成、支払を勝ち取るサービスが登場し、注目を集めている。アメリカの医療保険における根深い問題「三つのD」とともに現状をお伝えする。

医療保険会社による診療報酬支払拒否の現状

医療保険会社による診療報酬支払拒否とは、患者や医療機関などによる診療報酬請求を医療保険会社が拒否し、支払わないことを指す。あるいは、診療報酬請求前に行われる医療機関からの「診療行為の事前承認」を医療保険会社が拒否し、当該診療行為が行われない状態を指す。

日本ではあまりお目にかかれないと思われるが、民間医療保険のウェイトが大きいアメリカの医療現場では「日常的」に見られる事象だ。

では、なぜアメリカでは診療報酬支払拒否が頻発するのか。その背景には保険会社の利益追求を目的とする経営姿勢があると見られる。保険会社は利益を最大化するために診療報酬を含むコストの支出を嫌い、可能な限り抑えようとする。保険会社はコストを「出し渋る」ことによってより大きな利益を獲得しているのだ。

アメリカの医療政策シンクタンクのKFFが行った調査によると、医療保険公的マーケットプレースで取り扱われている医療保険におけるネットワーク(*1)内医療機関からの診療報酬請求拒否率は19%で、ネットワーク外では37%に上るとしている。

*1 アメリカの医療保険では、加入者にネットワーク内の医療機関での受診を求めるケースが一般的である。ネットワーク内医療機関とは、医療保険会社系列の医療機関か、提携関係にある医療機関を指す。アメリカの医療保険では、ネットワーク外の医療機関で受診すると保険が適用されないケースが一般的である

ネットワーク外の医療機関に対する支払いを拒否することはそれなりに理解できるが、ネットワーク内での拒否率も相応の水準に達している。ネットワーク内と言えども保険会社による「出し渋り」が一般化しているということなのであろう。

実際にネットワーク内でも、医療保険会社によっては拒否率が54%に達するケースもあるとしている。アメリカの医療においては、たとえ医療保険に加入していても、医療保険会社によって診療行為が否定されることは一般的な出来事なのだ。

アメリカの医療保険における「三つのD」とは?

Fictitious health care claim insurance claim denial

そんなアメリカの医療保険においては、「三つのD」が存在するとされる。その「三つのD」とは、Deny(拒否)、Delay(遅延)、Defend(防衛)のことだ。

Deny(拒否)とは、本記事が取り上げているように、医療保険会社による診療報酬や診療行為そのものの拒否のことだ。Delay(遅延)とは、仮に診療報酬が支払われたとしても支払いまでに時間がかかり、結果的に遅延してしまうということ。そしてDefend(防衛)とは、医療費支払拒否や遅延などに対する訴訟を起こされた場合に医療保険会社が行う一連の防衛策のことだ。

医療保険に加入していたとしても、医療保険会社によって診療報酬や診療行為が拒否される。仮に診療が受けられたとしても、診療報酬の支払いまでに相当期間待たされる。さらに、それらを不服として裁判に訴えたとしても、医療保険会社が準備した弁護団などにより防衛されてしまう、といったイメージだ。

中でも深刻なのがDeny(拒否)で、実際に多くのアメリカ市民が必要な診療を受けられていないとされている。昨年末に発生した大手医療保険会社ユナイテッドヘルスケアのトンプソンCEOがニューヨークで射殺された事件の背景には、犯人によるDeny(拒否)への恨みがあったと見られている。

新たに登場したAIを使った「嘆願書作成サービス」

そうした中、診療報酬支払を拒否された患者のために診療報酬支払の「嘆願書(*2)」(Appeal)をAIで作成するサービスが登場し、メディアの注目を集めている。2023年に設立され、サービス提供を開始したClaimable(クレーマブル)はその筆頭だ。

*2 「嘆願書」とは、保険会社に拒否された医療行為の実施や診療報酬支払を求める陳情書であり、公的に定められた書類ではない。一般的には患者が主治医などの医師と共同で作成して保険会社へ送付するケースが多いとされる。

クレーマブルは、イギリス出身の医師で、大企業向け医療サービスのマネジメントに長らく携わってきたウォリス・ボッカーリ氏が中心となって立ち上げたスタートアップ企業だ。GEやアップルといったアメリカの企業で働く労働者に対して、医師の立場で診療報酬請求などのサポートを行っていた中、アメリカの医療保険においては診療報酬支払拒否率が申請数の20%に達する一方、「嘆願書」を作成して支払いを嘆願するケースは、拒否された患者のわずか1%に過ぎないことがわかった。

嘆願書の作成は複雑で、ましてや医療の素人である普通の患者に簡単にできるシロモノではない。そうであれば、AIを活用して必要な情報収集などを行い、嘆願書作成を代行してあげれば良い。ボッカーリ医師はそう思い立ち、直ちに仲間数人とクレーマブルを立ち上げたのだ。

クレーマブルの使い方は簡単だ。患者はクレーマブルでアカウントを作成して、診療報酬支払拒否の通知書と加入している医療保険の約款をそれぞれスキャンしてアップロードする。AIがそれらを読み取ると、AIから病状やこれまでの手続きなどについて質問されるので、それに答えてゆく。

AIは必要な情報を受け取ると類似事例などのクリニカルデータを集め、エビデンスとしてまとめて行く。同時に最新の病歴などをアップデートして嘆願書を作り上げてアウトプットする。作成された嘆願書はクレーマブルがそのまま医療保険会社の担当部署へメール、郵送、ファックスのいずれかの方法で送信する。

なお、クレーマブルの利用料金は、嘆願書一通作成ごとに39.95ドル(約5793円、郵送料別)からとなっている。

拒否され続けた「処方薬」がAIにより「使用許可」に

High angle view of a Japanese female caregiver doing home finance online on a computer together with her worried elderly patient at his home.

ノースカロライナ州に住む51歳(当時)の主婦、ステファニー・ニックスドルフさんは2021年にステージ4のメラノーマ(悪性黒色腫)の診断を受け、医療機関で治療を受けていた。

肺と脳に転移した癌は治療の効果もあって縮小し、病状は改善していた。ところが、主たる治療方法である免疫療法の影響を受けてか、ステファニーは強烈な関節炎に苦しむようになった。

主治医が治療薬「インフリキシマブ」(Infliximab)を処方しようと医療保険会社へ承認を求めたところ、医療保険会社から「拒否」されてしまった。主治医はめげずに何度も承認を求めたが、保険会社の回答はあくまでも「拒否」だった。

猛烈な痛みに苦しむ妻の姿を見かねた夫のジェイソンは、退役軍人局で長らくデータサイエンティストの仕事を続けていたザック・ヴェイグリスに相談する機会を得た。状況を説明したジェイソンにヴェイグリスは、現在AIを使って医療保険会社の「拒否」を覆す「嘆願書」を作成するサービスを立ち上げようとしているが、試してみないかというオファーを出した。ヴェイグリスは、上述のボッカーリ医師らと共同でクレーマブルの立上げ準備を進めていたところだった。ジェイソンは、そのオファーをその場で受け入れた。

クレーマブルのプロトタイプAIは直ちに作業を開始し、23ページの「嘆願書」を作成した。嘆願書には、保険約款に照らして「インフリキシマブ」を処方することがステファニーの権利であること、そして「インフリキシマブ」を処方しないことにより「治療不可能な関節障害に繋がる可能性がある」とする医療エビデンスを添付した訴えが、ロジカルかつ明瞭な文体で展開された。また、嘆願書は医療保険会社のみならず、ノースカロライナ州保険健康局と消費者保護局にも同時に送られ、州の行政当局が関与すべき問題でもあることもアピールした。

数日後、医療保険会社は「インフリキシマブ」の処方を認め、同時に処方を認めるまでに相当の時間がかかったことを謝罪する手紙がステファニーに送られてきた。後日、NBCのインタビューに答えた医療保険会社の担当者は、「不適切な審査スタッフによる手続き上のエラーが約款の誤解釈をもたらしました」と事情を説明している。

多くの患者が「嘆願」せずに受療できない現実

クレーマブルの活躍の背景には、クレーマブルの創業者が主張するように、診療を求める申請の20%程度が「拒否」されていることや、拒否された患者のわずか1%しか「嘆願」しないというアメリカの現実がある。アメリカ市民の多くは、たとえ医療保険に加入していたとしても、医療保険会社に拒否をされればそれでおしまいだと思ってしまっているのであろう。

クレーマブルによると、クレーマブルが作成した嘆願書の「採択率」は80%を超えているという。生身の人間の多くが諦めていたことが、AIによって救われ始めた現実を示す好事例といって良いかもしれない。これまで泣き寝入りを余儀なくされていた多くのアメリカ市民にとっての、頼りにできる「ホワイトナイト」が誕生したことは間違いなさそうだ。

参考文献

http://fkff.org/private-insurance/issue-brief/claims-denials-and-appeals-in-aca-marketplace-plans-in-2023/
https:// www.shortform.com/blog/the-3-ds-of-insurance/
https://www.getclaimable.com/
https://www.nbcnews.com/news/us-news/ai-helping-patients-fight-insurance-company-denials-wild-rcna219008

WRITING BY

前田 健二

経営コンサルタント・ライター

事業再生・アメリカ市場進出のコンサルティングを提供する一方、経済・ビジネス関連のライターとして活動している。特にアメリカのビジネス事情に詳しい。

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