CULTURE

設立800年、スペイン最古の大学が提供し続ける「学びの価値」とは?

日本では、少子化が進む中、多くの大学がその在り方を模索している。しかしその結果、大学を「良い就職先にたどり着くための手段」と考える人も増え、「学ぶこと」そのものに対する姿勢や智慧を得ること自体が軽視されているのではないだろうか。

ヨーロッパの西端にあるスペインも、現在少子化に直面している国の一つである。では、この国で「学びの価値」はどのように作られ、表現されているのだろうか。

サラマンカ大学の歴史 「知を求めるものはサラマンカへ行け」

イベリア半島のほぼ中心部にある、スペインの首都マドリード。そこから250kmほど北西に移動すると、スペインで最も古い大学を持つ街のサラマンカがある。

13世紀にスペインを治めていたアルフォンソ9世は、1218年にサラマンカ大学を創設する。このアルフォンソ9世はサラマンカ大学を設立する一方で、様々な分野の専門家が参加するCortesと呼ばれる集会を開催していたことなどから、学問の普及に非常に熱心だったことが伺える。そして、約30年後の1254年に、法学や医学・神学などの専門家、そして大学や図書館の事務を担当する職員などを迎える形で、サラマンカ大学は現在の大学に近い形で機能するようになった。

日本では鎌倉時代の初期にあたる時期に産声をあげたサラマンカ大学は、オックスフォード大学・ケンブリッジ大学・パリ大学・ボローニャ大学などと並ぶヨーロッパ最古の大学の1つでもある。

そんなサラマンカ大学が最も華やかだったのが、16世紀から18世紀にかけてのこと。このころ「 知を求めるものはサラマンカへ行け」と評されたこともあるほど、この大学で学問を収めることは中世の上流階級の人々にとって大きな意味があった。

現在のサラマンカ大学は16の学部と13の研究所を有する総合大学である。学生数は2万7000人、教授の数は約2200人という大規模な大学となっている。

800年以上の歴史があり、、大学のOBには、太陽王ルイ14世の宰相だったジュール・マザランや、「新大陸」における先住民インディオに対する残虐行為を告発、スペイン支配の不当性を訴えつづけた「インディオの保護者」ことバルトロメ・デ・ラス・カサス、スペイン民主化期の首相でマドリードの国際空港の名称にもなっているアドルフォ・スアレス・ゴンサレスなどがいる。

サラマンカ学派と社会科学


前述の通り、サラマンカ大学が最も華やかだったのは、16世紀から18世紀の間である。この時代のサラマンカ大学の主役は「サラマンカ学派」と呼ばれる人たちであった。

もともと、中世ヨーロッパの高等教育というのは神学(キリスト教学)を学ぶものであった。しかし、12世紀のルネサンスをきっかけに、これまでキリ スト教神学基礎を学びまた教えていた教父たちの間にもアリストテレスの論理学や自然科学が受け入れられるようになり、その結果 として13 世紀にスコラ学が成立した。 そしてサラマンカ学派とは、サラマンカ大学でスコラ哲学の思想を受け継ぎ、同時にスコラ哲学を再構築した知識人たちのことを意味している。

ルネッサンスの源流としてアリストテレスの教えはサラマンカに受け継がれている。アレキサンダー大王に教えを解くアリストテレス。

そのようなサラマンカ学派の特徴の一つとして、現代の社会科学に通じる理論が数多く主張されていたことが挙げられる。例えば「売り手より買い手が多いときにはものの価格があがり、買い手より売り手が多いときには価格が下る」という自由市場の理論は、この時代のサラマンカ学派の一人であるドミンゴ・デ・ソトにより主張されていた。また、サラマンカ学派において、公正な価格とは、「自然な交換状態によって生まれた価格であり、それ以上のものでも、それ以下のものでもない」と考えられていた。

また、サラマンカ学派では、国家の主権はそれぞれの「村(その土地に住む人々)」が持っているものであり、(主にスペインの)国王はその主権を委任されているだけで、国王が絶対的な権限を持っているわけではないことを主張していた。また、サラマンカ学派の代表的知識人の一人であるフランシスコ・デ・ビトリアは、当時スペインが南アメリカへ進出していたことに関して、国家の間の関係は法律に則って作られるものであり、軍事力で作られるものであってはならないと主張していた。

今となっては至極基本的な思想である経済学の「価格決定の理論」や国際法の「国家主権の理論」といったものが、300年以上前のこのサラマンカ学派の思想に見られているのである。

サラマンカ大学で学ぶ価値とは


サラマンカ学派の主要知識人たちは基本的には神学者であり、経済学者でも法学者でもなかった。しかし、彼らは、その頃にスペインが直面していた様々な社会問題を解決する方法をみつけようとしていたのである。

というのも、サラマンカ学派が華やかなりし時代というのは、スペインがラテンアメリカへ進出していた時代とほぼ一致する。この時代にスペインは、ラテンアメリカで先住民(インディオ)の人々と出会いそして彼らと戦いながら、ラテンアメリカで手に入れ金銀をスペインに運んでいた。

当時、ラテンアメリカから金銀が流入したことにより、スペインでインフレが発生した。こうした状況から、サラマンカ学派は金融・経済理論の必要性を認識することになる。また、スペイン人がラテンアメリカで先住民と出会い関係性を構築する際に、キリスト教信者(=ヨーロッパ人)がキリスト教信者ではない人(=ラテンアメリカの先住民)と接する際のマニュアルや理論的なバックボーンが必要だったとしても不思議はない。

こうした時代背景から、サラマンカ学派はスコラ哲学を神学だけにとどめておくのではなく、経済理論や国際法学にまで拡大するようになったのである。

そして、おそらく、こうしたサラマンカ学派の経験の歴史が、いまだにサラマンカ大学での「学びの価値」を生み出しているのではないだろうか。

一つの学問をメインに学ぶ一方で、社会状況に合わせて他のことを学んだり、経験したことを組み合わせたりして新しい視点を生み出すことが、いまだにサラマンカ大学でも重要視されていることだと思う。それは「教養」と呼ばれるような、一見自分の専門分野とはかけ離れているように見える知識を学ぶ重要性を意味している。そして、こうしたサラマンカ学派の経験の歴史が、現代まで連綿と受け継がれているのである。

新しい視点は、全く知識がない状態から生まれてくるものではない。様々な知識や経験を状況に応じて有機的に組み合わせて物事を見ることで、一つの事象の背景や経緯というものがより正確に見えるようになる。そしてこのことは、社会人として働いている時には、相手の立場を理解したり、状況を正しく判断したりする能力に形を変えることもあるだろう。

これこそが、サラマンカ大学が提供している「学ぶ価値」と言えるのではないだろうか。

参考文献

北嶋繁雄(2007) 中世ヨーロッパにおける大学の起源 愛知大学史研究, (1)pp.29-33. 愛知大学リポジトリ (nii.ac.jp)
https://www.usal.es/historia
https://indicadores.usal.es/transparencia/images/cifras.pdf
http://www.scielo.edu.uy/scielo.php?script=sci_arttext&pid=S2301-16292020000200087
https://www.mastertranscom.com/origen-escuela-salamanca/
https://www.geografiainfinita.com/2020/09/la-escuela-de-salamanca-nacen-los-derechos-humanos-y-la-economia-de-mercado/
https://www.lavanguardia.com/historiayvida/mas-historias/20190504/47312033868/salamanca-el-think-tank-de-la-espana-imperial.html
https://www.corsarios.net/indice-escuela-espanola-de-economia-siglos-xvi-y-xvii/

WRITING BY

對馬 由佳理(Yukari TSUSHIMA)

ライター

スペイン在住の道産子。大学院の博士課程終了後、ライターとして活動中。スペイン・ポルトガルを取材で飛び回る日々をおくる。